宇留野圭 (うるのけい)

『Deprived Parts (剥奪された部品)』

設計図 / 立体/ インスタレーション

サイズ可変


地方の工場で部品を作っていた。僕は単純作業が好きだから、とても楽しかったし、満足していた。しかしあるときふと「これ何に使うんだろ。」と思った。

僕は製造専門だから、誰が注文したかもそれがどの様な目的で使われるかも分からなかった。その時はあまり深く考えなかったが、今考えると恐ろしいことだったのではないだろうか。技術や精度、生産性を考え作業をしていたが、その部品は、人を殺す武器や兵器にだってなっていたかもしれないし、僕は知らないところで悪行に手を貸していたのかもしれない。

人間や社会。物と物の関係性。世の中の構成物は全て、広義の「パーツ」で成り立っているといってもいいかもしれない。様々な事物、事象は複雑に絡まりあい構成されているが、私たちがそれらを見る時、まるでそれらは元々一つの完成形であったかの様に統一的な、一つのものとして認識している。しかし確かな構成物でも分解してしまえば、「機能」を失い、バラバラの「パーツ」としか呼び得ないものになってしまい、その「パーツ」を単体で観察しても、元々の「機能」や「全体」をさぐり当てるのは困難であろう。「パーツ」は、形態的には完全でありながらも、不定形な存在なのではないだろうか。

何にどのようにつかわれるか不明だが、確かな形態を保つ部品はとても奇妙で不気味で恐ろしくも思えてくる。しかし、日本の製造業の多くは、トヨタ生産方式で知られる「カイゼン」を導入していて、整理整頓を心がけ、徹底的に無駄が排除され、よりよい作業環境にする。そういった環境では、実際僕がそうだったように効率や生産性、精度、寸法、開発などにしか意識が向かず、その行き先、目的やその正体は何なのかは不透明なままであるし、気づきもしない。不気味な「パーツ」はまた、不気味な「環境」にもいる。

僕は「パーツ」から明確な「目的」と「機能」を剥奪した。剥奪された「パーツ」は、無目的に引かれた設計図を頼りに、強度も必然性も失い、頼りなく全体を構成する。僕は「パーツ」に不可欠な要素を剥奪することで、不定形で不気味な「パーツ」と「環境」の確かな形と認識を探る。